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Vol.01 秋草 文

植物の健康を光で診断、未来の農業を変える挑戦

秋草 文 Aya AKIKUSA

浜松ホトニクス株式会社 中央研究所
第8研究室

プロフィール 浜松ホトニクス中央研究所 農業グループ所属。高校時代に「乾燥地農業」を知ったことをきっかけに、農業に興味を持つ。現在は研究チームのリーダーとして、光センシング技術を活用した植物の状態診断や栽培環境の計測など、未来の農業に役立つ技術開発に取り組んでいる。

記事掲載日:2015年7月4日  
所属先・肩書その他の情報は当時のものです。

人間が健康診断を受けるように、植物の健康状態も調べられたら──。
これまではベテランでも難しかった植物の健康診断に、光技術で取り組んでいる研究者がいる。実用化というゴールに向けた道のりはまだ遠いというが、もう、その道筋ははっきり見えているようだ。

植物の成分から、健康状態がわかる

この地球で最初に繁栄した生物といわれる植物は、その誕生以来、ずっと光をエネルギー源にして生きてきた。さらに新芽をつけたり花を咲かせたりといった季節を知るための信号としても、光を利用していることがわかっている。
そんな光の達人である植物を、光の技術で研究しているヒカリストがいる。

「ライフホトニクス」を標榜し、人類の未来に役立つ光技術を探究している浜松ホトニクス中央研究所。ここで農業における光技術の可能性を探っている秋草文さんが取り組んでいるのが、光を使った植物の健康診断だ。

「私たち人間が健康診断で『塩分やカロリーの取り過ぎに注意』なんていわれるように、植物も健康に育てるためには肥料や水をあげ過ぎてもいけないし、少な過ぎてもいけない、ちょうどいい分量があります。植物のからだは、大量の水とともに、炭水化物、タンパク質、無機質などで構成されますが、植物の成長段階や状態によって、これらの成分やそのバランスが変化しています。私たちは、植物体内の水や主要成分の変化を追い、どんな肥料あるいはどんな環境要素(水、 光、温度等)が不足あるいは過剰なのかを推定する技術を作りたいと考えています」
植物を構成する成分(分子)は、特定の波長の光を吸収したり反射したり独特の動き(スペクトル)を見せるため、さまざまな波長の光を当てることで植物に含まれる分子が推定できる。それを、植物の診断に活用しようというわけだ。
「近年、植物工場やスマート農業など先進的な技術導入がみられる日本の農業ですが、栽培の現場では見た目や触感といった五感に頼っている部分が、まだまだ大きい。ITの発展で気温や湿度、日射量等といった環境のデータは活用されるようになりましたが、肝心の『植物を診る力』といえる技術がないんです。ベテラン農家さんが持つ『診る力』は長年の経験と勘から培われた暗黙知であり、そのノウハウを容易に次世代に受け継がせることができないのが、今の農業の問題のひとつではないでしょうか。だから誰にでもわかりやすく知識の共有ができるよう、植物の状態を正しく把握し、農作業を見える化できるシステムを作ることで、未来の農業を支えることができると信じています」

道乗りは遠くとも、目標は明確

幼い頃から草花が好きだったという秋草さん。学生時代は興味の赴くままに、さまざまな将来を思い描いていたというが、植物との縁だけは別だったようだ。
「高校生の頃に見たテレビが、農業に興味を持った一番古い記憶です。紙オムツの素材が持つ保水能力を使って農作物を育てるという、乾燥地農業の特集でした」
中でも、技術の力で砂漠に緑を生み出すという点が、とても印象的だったという。
「大学で専攻したのは、『施設園芸学』。ここで植物が持つ特性を調べたり、その特性をうまく利用して農作物の出来を改善することの面白さを学んだのが、今に続くルーツになったのかもしれませんね」

そんな秋草さんが初めて光技術と出会ったのは、就職がきっかけだった。
「農業に新しく参入する面白い会社があるよ、と人づてに聞いて今の会社の入社試験を受けたのが、光技術との出会いです。実を言うと、その時は光技術については、ほとんど無知だったんですけれども(笑)」

秋草さんは現在、植物の成分を光センシング技術によって分析し、植物の状態診断や栽培環境の計測技術を開発する研究グループを率いるリーダーを務めている。スタッフは5名。植物学だけでなく、遺伝子や物理、機械といった幅広いバックボーンを持つバラエティー豊かなメンバーが集い、要素技術の研究からデバイスの開発まで一貫して取り組んでいる。
「今はまだ身近な植物を特定の管理下で育てながら、植物の状態と数値を結び付ける基礎的なデータを集めている段階」と控えめに語る秋草さんだが、実際、農業の現場で活用されるまでの道程は楽ではない。
光センシングによって植物の状態を診断する技術は、ほぼ確立しているようだ。しかし植物の種類や成長度合によって最適な数値は異なるので、主な品種の基礎データを集めるだけでも一苦労だ。

「もうひとつの目標としては、デバイスの開発があります。現在の診断風景といえば、すり潰した植物の抽出液をさまざまな波長の分光光度計や高速液体クロマトグラフィーなどの検査装置で分析するといった具合。実際の農家さんに活用してもらうには、少なくともハンディサイズで、面倒な処理のいらない機材が必要になるでしょう」。現在開発中の赤外分光技術は、「ハンディとはいかないまでも、ポータブルの運用ができそう」なサイズを実現できそうだという。
「個人の思いで言えば、今の仕事はまだ山の1合目に到着した程度」とはいうが、その歩みは着実に山頂に近づいているようだ。

光技術が変える未来の農業

光技術は未来の農業をどう変えるのか。秋草さんは、明確なイメージを持っている。
「聴診器がお医者さんのトレードマークになっているように、ハンディ植物診断器が農家さんの必需品になる。それがひとつのゴールでしょうね」
葉っぱや茎を挟むだけで、植物の健康を教えてくれる診断器。さらに温度や湿度等の環境データと、その時にどんな作業を行ったかの記録を、共に蓄積・解析していくことで、地域や気象に適した栽培手法を導き出したり、適した作物の選定・栽培に取り組んだりできる。さらにその情報を、クラウドなどを利用して共有できれば、地域や国、そして世界中の農家の作物を豊かに実らせるための教科書になっていく、そんな未来だ。

「また光による分析は、X線やMRIなどに代表されるように、非破壊・非接触の検査が特長です。遠隔で分析できる高感度・高速な計測器を作ることができれば、人工衛星や無人飛行機を使って広範囲の植物の状態を推定することができるかもしれません」
秋草さんたちが現在の研究を始めて3年。その経験は、決して多くはない。
「光センシング技術を活かした農業という分野では、他にも研究を進めているところがいくつかあります。その中では私たちはまだ若輩者ですが、光技術の開発にたけた人たちに支えられていますから」。そんなチームの足腰の強さも、彼女の夢に現実味を与えている。

そんな秋草さんの楽しみは、白衣を脱いで家に帰り、幼稚園から小学校高学年まで3人兄弟の母親の姿に戻る時間だ。
小学生にしてお弁当づくりやお菓子づくりが得意で、並んでキッチンに立つこともある長男。次男と折り紙や工作の宿題にチャレンジしたり、三男の大好きな図鑑を一緒に読んだり。子どもたちのやりたいこと、やるべきことに寄り添う姿勢を大切にしている。
「身の丈に余る表現かもしれませんが、研究者としては『世界の食に貢献する』『世界の食料問題解決に役立ちたい』という大きな目標はあります。でも、子どもたちが生きていく未来を、緑豊かで安心して生活できる、安心してご飯が食べられる世界にしてあげたい、という母親の素直な想いもあります。私の場合、その両方が同じベクトルを持っているということが、本当に幸せだと思っています」